八支則6.凝念

ヨガを一から習う

2-46

凝念とは、心を特定の場所に縛り付けることである。

1-32

(以上のような)心の散動状態を退治するためには、何かある一つの原理を対象とする修習が必要である。

1-33

慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を念想することから、心の成長が生ずる。

1-37

あるいは、行者の心が欲情を離れた聖者を対象とする時にも、清澄が生ずる。

1-38

あるいは、夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた清澄をもたらす。

1-39

あるいは、何でも自分の好むものを瞑想することからも、心の清澄は生ずる。

『ヨガ・スートラ』

6.凝念:ダーラナー

注意を留める行法である。原語である『dhāraṇā』は、「執持、縛り付ける、しっかり捕まえておくこと」などを示し、一般的には「集中」とも訳されている。それは修習の態度である。

凝念の意図は、まず単純に、心をより精妙で内的な対象に慣れさせるためことである。


そして、『静慮』へと導くためことである。

集中努力

凝念とは、凝念対象(意識内に意図的に思想する対象)に、注意を向け続ける作業である。即ちそれは、凝念対象へ集中し続ける努力である。
例えるならそれは、動き回ろうとする牛馬に餌を与え続け、一か所に留まらせる努力である。

外的な対象との接触により心の散動は起こる。故に、その接触を断つために、注意を内的な対象に留めることが、心を不動状態に導くためにすべき心理的操作である。

戒律行による修習(内側への関心を向ける)を進展させていくことが、瞑想行による凝念を進展させていくことになる。逆もまた然りである。最終的には、戒律行と瞑想行(日常と坐法)は、<ひとつ>の行法とならなければならない。

凝念と制感

凝念とは制感の裏側である。それは凝念対象に注意を向け続けるが努力であり、その裏では同時に、凝念対象以外へと注意が向くのを引き止め続ける努力でる制感が行われている。

持続的な凝念により持続的な制感は進展し、持続的な制感により持続的な凝念は進展する。そして凝念と制感の持続性が、やがて『静慮』へと心を進展させていく。

凝念対象への無関心は凝念と制感を後退させ、凝念対象への関心は凝念と制感を進展させる。雑念への関心は凝念と制感を後退させ、雑念への無関心は凝念と制感を進展させる。

凝念と制感は「凝念対象への関心」と「雑念(凝念対象以外)への無関心」とにより、静慮へ導かんとする同じ<ひとつ>の行法の側面である。

凝念対象

凝念対象(注意を向ける対象)は、外に見える色形、外から聞こえる音声、外に感じられる体感、内に思想する色形、内に思想する音声など、自身が好むものでよい。

具体的には、ロウソクの炎、水が流れる音、鼻先の感覚、神の姿、黙唱する呪文の内声などである。

直接的方法

非顕現である真我の顕現としての自己存在感覚を、凝念対象とすることは、その源泉である真我そのものに至るためのより直接的方法である。

慣れない内は、より安易に認識できるより粗雑なものを対象とするとよい。具体的には、外に見えるロウソクの炎や、音唱する長い呪文の外声などである。慣れてきたら、より精妙なものを対象とするとよい。具体的には、神の姿や、黙唱する単音の音声などである。可能であるなら、より精妙な自己感覚(自我)や、観照者、意識、気づきとしての自己存在感覚<私>を対象とするとよい。

要点は、持続的に気づいていることである。気づきを保つことにより、持続的に凝念対象に注意を向けることができる。


真に注意が留まるならば、全ての雑念は排除され、三昧へと至る。



凝念


<私>に留まる

私は、観照者としての<私>に留まる
私は、 意識 としての<私>に留まる
私は、気付きとしての<私>に留まる

私は、<私>に留まる

私は、<私>を信頼し、愛している

私は、不幸に関心は無い
私は、幸福に関心が有る

私は、<私>以外は不幸の種であることを自覚している
私は、<私>のみが幸福の源であることを自覚している

私は、<私>以外に関心は無い
私は、<私>のみに関心が有る

私は、<私>を信頼し、愛している

私は、<私>に留まり続ける



凝念とは、瞑想法そのものであると言えるでしょう。


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