修習と離欲
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心の様々な作用を止滅するには、修習と離欲という2つの方法を必要とする。
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この2つの止滅法のうち、修習とは、心の作用の静止を目指す努力のことである。
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この修行を長い間、休むことなく、厳格に実践するならば、堅固な基礎ができあがるであろう。
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離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いた全ての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者たる自覚である。
『ヨガ・スートラ』
1.修習:アビヤーサ
真我(常在、清浄、幸福、自己)へと関心を留める努力である。原語である『abhyāsa』は、「何度も繰り返すこと」を示している。一般的には「修練」とも訳されている。
これを絶え間なく実践することにより、散動しようとする心の習慣は、徐々に消えていき、心は静まり、真我に留まり続けるための習慣が培われる。
2.離欲:ヴァイラーギャ
非真我(非常在、非清浄、非幸福、非自己)から関心が離れ、それらに無関心となた状態である。原語である『vairāga』は、「ーー無しに、ーー無しで」などを示す『vi』と、「欲望、情熱、興味」などを示す『rāga』とからなり、それは「無関心、無欲、公平無私』などを示している。
因みにこの『rāga(ラーガ)』とは、煩悩の一つである『貪愛』と同語である。
真我でないものは、如何に儚く、汚れ、苦しみの要因であるのかを明確に理解することにより、真我でないものから関心は離れ、心は静まり、真我に留まり続けるための習慣が培われる。
<ひとつ>の方法
修習とは、真我のみへと関心(探究、信愛)を向ける努力であり、離欲とは、真我以外への無関心である。故に、修習により離欲は進み、離欲により修習は進む。
即ち、修習と離欲は「真我への探究、真我への信愛」により真我へ導かんとする、同じ<ひとつ>の行法の側面である。
外側から内側へ
真我へ辿り着くまで、外側を放棄し続け、より内側へ内側へと入って行くことである。それ故、非真我への無関心がどれ程に徹底されているかどうかであり、真我への関心がどれ程に誠実であるかどうかである。即ち、内側へ向かう能力、真我に留まる能力とは、その関心(探究、信愛)の向きと強さ、つまり欲望の向きと強さで決定される。
外側(非真我)への無関心は、そこに幸福はないという明確な理解によりもたらされ、内側(真我)への関心は、そこにのみ幸福があるという明確な理解によりもたらされる。
修習と離欲の意図は、心の散動状態を維持する習慣を排除し、心の不動状態を維持する習慣、即ち真我へ留まる能力を獲得し、自己と対象との同一化を弁別し、無明を除去することである。
心の逆転変
非煩悩性とは、内側にある真我に関心が向くことであり、煩悩性とは、外側にある非真我へと関心が向くことである。要するに修習とは、関心の向きを外側(非真我)から内側(真我)へ、即ち、心を煩悩性から非煩悩性へと逆転変させることを狙っている。
最終的には、外側にある全ては苦悩の種であると理解することにより、その全てを放棄し、内なる真我へと至ろうとするものである。
修習と離欲
常在でないものから関心を離し、それを放棄しなさい
清浄でないものから関心を離し、それを放棄しなさい
幸福でないものから関心を離し、それを放棄しなさい
自己でないものから関心を離し、それを放棄しなさい
すべての思想が消滅するまで、現れては消える思想を放棄しなさい
常在であるもにに関心を寄せ、そこに留まりなさい
清浄であるもにに関心を寄せ、そこに留まりなさい
幸福であるもにに関心を寄せ、そこに留まりなさい
自己であるもにに関心を寄せ、そこに留まりなさい
真我が独りでに光り輝くまで、常に在る<私>に留まりなさい
真我への信愛に、誠実でありなさい
修習と離欲とは、「外にないものを外へと探しにいくことを止めて、内にあるものを内に探しにいきなさい」という単純明快な教えに基づいた合理的な方法と言えるでしょう。
修習と離欲の達成が、ヨガの達成、即ち心の作用の止滅そのものである。