八支則7.静慮

ヨガを一から習う

2-46

静慮とは、凝念に引き続いて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念が一筋に伸びてゆくことである。

『ヨガ・スートラ』

7.静慮:ディヤーナ

注意が留まる状態である。原語である『dhyāna』は、「熟考、同じことを思想し続けること」などを示し、一般的には「瞑想」とも訳されている。

静慮の意図は、まず単純に、心をより精妙で内的な対象に慣れさせるためことである。


そして、『三昧』へと導くためことである。

集中状態

静慮とは、凝念対象(意識内に意図的に思想する対象)に、注意が向き続ける状態である。即ちそれは、凝念対象へ集中し続ける状態である。
例えるならそれは、牛馬が動き回ろうとすることを止め、一か所に留まっている状態である。

静寂(心の不動状態)に留まり続けることである。静寂に留まることの障害となるのは、静寂への恐怖、不慣れ、退屈などである。このような場合、静寂が訪れた途端に心が動いたり、静寂が訪れても、長い時間はそれを保てないことになる。そのため繰り返し静寂の訪れを経験し、静寂に慣れ親しみ、静寂を好むことである。

心の静寂が、慣れ親しめる程に普通の状態と成るまで、戒律行と瞑想行(日常と坐法)を<ひとつ>の行法として、日々、取り組まなければならない。

自発性

制感と凝念の作業が持続的にはかどることにより、より持続的な凝念へと導かれる。それは1つの対象に注意を向け続ける努力なしに、1つの対象に注意が向き続ける状態であり、この凝念の自発性が、静慮と呼ばれている。

無努力

静慮とは、何かをする努力ではなく、何も努力していない心の不動状態である。瞑想者のすべきことは、気づきを保ち、制感と凝念の作業を持続的に精力的に行うことだけであり、それから後のことは、自発的に起こることに任せるより他ない。

真に注意が留まるならば、全ての雑念は排除され、三昧へと至る。



静慮


静寂に留まる

私は、観照者としての<静寂>に留まる
私は、 意識 としての<静寂>に留まる
私は、気付きとしての<静寂>に留まる

私は、<静寂>に留まる

私は、<静寂>を信頼し、愛している

私は、喧騒に関心は無い
私は、静寂に関心が有る

私は、<静寂>以外は不幸の種であることを自覚している
私は、<静寂>のみが幸福の源であることを自覚している

私は、<静寂>以外に関心は無い
私は、<静寂>のみに関心が有る

私は、<静寂>を信頼し、愛している

私は、<静寂>に留まり続ける



静慮とは、瞑想そのものであると言えるでしょう。


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