八支則5.制感

ヨガを一から習う

2-54

制感とは、諸感覚器官が、それぞれの対象と結びつかなくなって、心の自体の模造品のように見える状態をいう。

2-55

制感の行法を修練してゆくならば、ついには緒感官に最高の従順さが生ずる。

『ヨガ・スートラ』

5.制感:プラティヤーハーラ

感覚を調える行法である。原語である『pratyāhāra』は、「ーを撤退する、ーを引き戻す、ーを引き止める、ーを引っ込める」などを示す『praty』と、「食糧、取り込まれたもの」などを示す『āhāra』とからなり、それは「感覚器官から取り込まれた対象へ注意が向くのを引き止めること」を示している。

制感の意図は、まず単純に、心をより精妙で内的な対象に慣れさせるためことである。


そして、感覚を調えることにより、持続的な『凝念』へと導くためことである。

放棄努力

制感とは、凝念対象(意識内に自発的に思想される意図的に思想する対象)以外に注意が向くのを引き止める作業である。即ちそれは、雑念(凝念対象以外)を放棄する努力である。
例えるならそれは、動き回ろうとする牛馬を力づくで引き止める努力である。

外的な対象との接触により心の散動は起こる。故に、その接触を断つために、注意が外的な対象(雑念)へ向くのを引き止めることが、心を不動状態に導くためにすべき心理的操作である。

戒律行による離欲(外側への無関心)を進展させていくことが、瞑想行による制感を進展させていくことになる。逆もまた然りである。最終的には、戒律行と瞑想行(日常と坐法)は、<ひとつ>の行法とならなければならない。

制感と凝念

制感とは凝念の裏側である。それは凝念対象以外へと注意が向くのを引き止め続ける努力であり、その裏では同時に、凝念対象に注意を向け続ける努力でる凝念が行われている。

持続的な制感により持続的な凝念は進展し、持続的な凝念により持続的な制感は進展する。そして制感と凝念の持続性が、やがて『静慮』へと心を進展させていく。

雑念への関心は制感と凝念を後退させ、雑念への無関心は制感と凝念を進展させる。凝念対象への無関心は制感と凝念を後退させ、凝念対象への関心は制感と凝念を進展させる。

制感と凝念は「雑念(凝念対象以外)への無関心」と「凝念対象への関心」とにより、静慮へ導かんとする同じ<ひとつ>の行法の側面である。

感覚器官

感覚器官には、視覚器官「眼」、聴覚器官「耳」、嗅覚器官「鼻」、味覚器官「舌」、体性感覚器官「身体」、思想覚器官「心」の6つがある。

取り込まれる対象

これら6つの感覚器官から取り込まれる対象には、眼からの「色形」、耳からの「音声」、鼻からの「芳香」、舌からの「食味」、身体からの「体感」、心からの「思想」の6つがある。

思想覚対象

色形、音声、芳香、食味、体感の5つの対象も、それを知覚認識するのは眼でも、耳でも、鼻でも、舌でも、身体でもなく、心である。心の注意が何れかの感覚に向き、心に取り込まれるとき、これらは思想覚対象として認識される。

要点は、持続的に気づいていることである。気づきを保つことにより、持続的に雑念に注意が向くのを引き止めることができる。


真に感覚が調うならば、全ての雑念は排除され、三昧へと至る。



制感


対象への関心を撤退する

眼を通し、心に認識される  視覚対象『色形』  への関心を撤退する
耳を通し、心に認識される  聴覚対象『音声』  への関心を撤退する
鼻を通し、心に認識される  嗅覚対象『芳香』  への関心を撤退する
舌を通し、心に認識される  味覚対象『食味』  への関心を撤退する
体を通し、心に認識される 体性感覚対象『体感』 への関心を撤退する
心を通し、心に認識される  思想覚対象『思想』  への関心を撤退する



外的環境を調える

各対象へと関心の向き易い、不快で変化する外的環境は、避けた方が良い
各対象へと関心の向き難い、快適で安定した外的環境は、より適している
無光、無音、無香、無味、無体感により近い外的環境は、より適している
しかし外的環境を調える事より、内的環境を調える事に留意すべきである



内的環境を調える

日頃から各対象へ関心を向ける態度は、心を散動へと導き、内的環境は乱される
日頃から各対象に無関心である態度は、心を不動へと導き、内的環境はより調う
日頃から快楽と苦痛、欲望と恐怖に無関心である事により、内的環境はより調う
日頃から非常、非浄、非楽、非我に無関心である事により、内的環境はより調う



感覚を調える事は、心を調える心髄である



制感とは、瞑想法の核心であると言えるでしょう。


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