【禁戒①】非暴力

ヨガを一から習う

2-35

非暴力の戒律に徹するならば、その人の側では、全てのものが敵意を捨てる。

『ヨガ・スートラ』

① 非暴力:アヒンサー

他者を傷つけてはならない、という禁止戒律である。原語である『ahiṃsā』は、「非、不、無」などを示す『a』と、「暴力、傷害、殺生」などを示す『hiṃsā』とからなり、一般的には「不傷害、非殺生」などとも訳されている。

因みに、仏典では五戒の1番目、聖書では十戒の後半1番目を「不殺生戒」としている。

制圧と陥落

非暴力の戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、例えば「制圧したい」などの欲望(貪愛)と、「陥落したくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、制圧と陥落への関心、執着から起こる。そして制圧と陥落への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『制圧と陥落』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは暴力のより直接的な要因となる制圧と陥落を例として示している。

非暴力の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。


そして他者を傷付けようとする心の作用を起こす動機となる、制圧と陥落を含め様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。

対抗思想:原因と結果の理解

非暴力に背こうとする思想に対抗する思想とは、制圧と陥落への無関心を起こす思想である。

まず単純に、他者を傷付けてはならない。しかし、他者を傷付けるかどうかが非暴力の本質ではない。その本質は無明、我想、そして他者を傷付けようとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(制圧と陥落などへの関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、暴力は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、制圧や陥落などへの関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、暴力を永続させる要因なのであり、制圧や陥落などへの無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、暴力を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、他者を傷付けようとする要因となる無自覚﹅﹅﹅的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚﹅﹅することである。

それは、制圧と陥落に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。

無敵

制圧と陥落に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非暴力を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『無敵』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。

相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは制することと陥ちることの中にある。この関係性を超えて非暴力を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。

この関係性を超えて非暴力を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。


『制圧・陥落』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、非暴力は完全なものとなる。



非暴力


無敵でありなさい

仁王の様に、何一つとして負けず、屈強でありなさいという話ではない
無敵であるとは、制圧性、陥落性から離れた心の在り様を示している
『制圧・陥落』という名前と色形による区別を越えて平等である事である

無敵である時、愛が、愛のみを絶え間なく放つ

己の元へと来る、制圧と陥落の区別を越えて、無敵でありなさい
己の元から去る、制圧と陥落の区別を越えて、無敵でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、無敵でありなさい


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原因と結果を理解しなさい

個人的『私』は常に、制圧する事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、陥落する事など、苦しむ事を恐れている

それが個人的『私』の本性である

個人的『私』が楽しむ欲望から、他者を傷付けようとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、他者を傷付けようとする心の反応は起こる

即ち、すべての暴力は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる



限定された自己が誤りである

欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、暴力の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、暴力の動機である

故に、守るべき『私』がいる限り、暴力に終わりは無い

無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。

ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-暴力-である



平等でありなさい

名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、暴力の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-暴力-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-暴力-は終焉する

平等である時、全体的【私】としての自己愛がある

定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい



努力を手放しなさい

満たされた制圧欲は、制圧へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの制圧欲は、陥落へのより多くの恐怖を生む事と成る

制圧を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
陥落を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい

制圧と陥落は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
制圧されるものは、必ず、陥落されるものである

制圧を求め陥落を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい



自由でありなさい

この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
暴力によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい

真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である

欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい

制圧と陥落に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい



そして、元々ある幸福へ戻りなさい



非暴力の戒行とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、制圧を欲し求めることと陥落を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。


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