【禁戒③】非偸盗

ヨガを一から習う

2-37

非偸盗の戒律に徹するならば、求めずして、あらゆる地方の珠玉が彼の所へ集まる。

『ヨガ・スートラ』

③ 非偸盗:アステーヤ

他者の物を盗んではならない、という禁止戒律である。原語である『asteya』は、「非、不、無」などを示す『a』と、「窃盗」を示す『steya』とからなり、一般的には「不盗、不偸盗」などとも訳されている。それは物に限らず、あらゆる「他人の--」を盗まないことである。

因みに、仏典では五戒の2番目、聖書では十戒の後半3番目を「不偸盗戒」としている。

収奪と進呈

非偸盗の戒律に徹するには、これに背こうとする思想が起ってはならない。これらの戒律に背こうとする思想は、例えば「収奪したい」などの欲望(貪愛)と、「進呈したくない」などの恐怖(憎悪)を動機として起こる。即ち、収奪と進呈への関心、執着から起こる。そして収奪と進呈への関心は、『自と他』を示す相対的観念である無明を根因とし、『収奪と進呈』を示す相対的観念との自己同一化である我想を原因として起こる。
※ ここでは偸盗のより直接的な要因となる収奪と進呈を例として示している。

非偸盗の戒行の意図は、まず単純に、道徳心、自制心、意志力、忍耐力などを培うことである。


そして他者の物を盗もうとする心の作用を起こす動機となる、収奪と進呈を含め様々な相対的観念による快楽と苦痛への関心を止滅し、心の散動状態を維持する習慣を排除することである。

対抗思想:原因と結果の理解

非偸盗に背こうとする思想に対抗する思想とは、収奪と進呈への無関心を起こす思想である。

まず単純に、他者の物を盗んではならない。しかし、他者の物を盗むかどうかが非虚言の本質ではない。その本質は無明、我想、そして他者の物を盗もうとする動機である欲望と恐怖があるかどうかである。故に欲望と恐怖(収奪と進呈などへの関心)を止滅するために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、偸盗は、無明を根因とし、我想を原因として起こることを、明確に理解することである。次に、収奪と進呈などへの関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、偸盗を永続させる要因なのであり、収奪と進呈などへの無関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、偸盗を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、他者の物を盗もうとする要因となる無自覚﹅﹅﹅的な相対的観念を具体的に洞察し、明確に自覚﹅﹅することである。

それは、収奪と進呈に関心を持つことが、苦悩と無知を際限なく繰り返すだけであることを、明確に理解することによる確信である。

無為

収奪と進呈に無関心と成り、『自・他』という名前と形体の区別を越え、相対的な観念世界から自由になり、絶対的な平等性を実現し、非偸盗を達成した者に備わる心の在り様を示す名前が『無為』である。それは、真の自己へと至った者のみに備わる自然な在り方である。

相互の相対的依存関係の上に成り立つ名前と形体による観念世界において、あらゆるものは収めること呈することなることの中にある。この関係性を超えて非偸盗を徹底しようとすることは、自己が関係性の世界にいると錯覚している限り、不可能であり、自己欺瞞であり、自己矛盾に苦しむだけである。

この関係性を超えて非偸盗を徹底するには、自己が関係性の世界にはいないという事実を自覚しなければならない。


『収奪・進呈』という名前と形体による区別を超え、欲望と恐怖から自由になるそのとき初めて、非偸盗は完全なものとなる。



非偸盗


無為でありなさい

閑人の様に、何一つとして行わず、怠惰でありなさいという話ではない
無為であるとは、収奪性、進呈性から離れた心の在り様を示している
『収奪・進呈』という名前と色形による区別を越えて、平等である事である

無為である時、愛が、愛のみを絶え間なく行う

己の元へと来る、収奪と進呈の区別を越えて、無為でありなさい
己の元から去る、収奪と進呈の区別を越えて、無為でありなさい
今、そうである、あるがままの状況を越えて、無為でありなさい


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原因と結果を理解しなさい

個人的『私』は常に、収奪する事など、楽しむ事を求めている
個人的『私』は常に、進呈する事など、苦しむ事を恐れている

それが個人的『私』の本性である

個人的『私』が楽しむ欲望から、他者の物を盗もうとする心の反応は起こる
個人的『私」が苦しむ恐怖から、他者の物を盗もうとする心の反応は起こる

即ち、すべての偸盗は、個人的『私』の欲望と恐怖から起こる



限定された自己が誤りである

欲望と恐怖に支配された自己愛こそが、偸盗の原因である
臆病な己を守ろうとする自己愛こそが、偸盗の動機である

故に、守るべき『私』がいる限り、偸盗に終わりは無い

無論、自己を愛する事は、まったく当然の事である
故に、自己を愛する事が、誤った事なのではない。

ただ、限定された個人的自己のみを愛する事が、誤り-苦痛-である
欲望と恐怖に支配された限定的な自己愛こそが、誤り-偸盗-である



平等でありなさい

名前と色形により、限定的『私』を定義する事こそが、偸盗の根因である
『自分・他者』という名前と色形による区別こそが、誤り-偸盗-である
故に、『私』の定義付を止める事によってのみ、偏愛-偸盗-は終焉する

平等である時、全体的【私】としての自己愛がある

定義付による、自分と他者の限定を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の区別を超えて、平等でありなさい
定義付による、自分と他者の偏愛を超えて、平等でありなさい



努力を手放しなさい

満たされた収奪欲は、収奪へのより多くの欲望を生む事と成る
より多くの収奪欲は、陥落へのより多くの恐怖を生む事と成る

収奪を欲し求めようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい
進呈を恐れ避けようとする努力に、果ては無い事を見破りなさい

収奪と進呈は、コインの表裏の様に、分ける事の出来ない関係にある
収奪されるものは、必ず、進呈されるものである

収奪を求め進呈を避ける努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、それらの努力を手放しなさい



自由でありなさい

この在り方によってのみ、幸福の扉が開く事を、覚えておきなさい
偸盗によっては、何も解決しない事を、良くよく覚えておきなさい

真の解決-幸福-とは、欲望と恐怖の支配下から自由に成る事である

欲望と恐怖に支配された心を、制御しようと闘う必要は無い
欲望と恐怖の対象は、単なる『名前と色形』であると自覚しなさい
それらは単なる『空想』であると観て、無視しなさい

収奪と進呈に無関心と成り、欲望と恐怖の支配下から自由でありなさい



そして、元々ある幸福へ戻りなさい



非偸盗の戒行とは、欲望と恐怖という自身を苦しめている原因への対処法であり、収奪を欲し求めることと進呈を怖れ避けることに対する離欲無関心へと導くための手引と言えるでしょう。


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