【勧戒①】浄化

ヨガを一から習う

2-40

浄化の戒行を守る時、人は自己の肉体に対して嫌悪の情を抱くようになり、まして他人の身体に触れたりはしなくなる。

2-41

浄化の戒行を守るならば、さらに、純粋質の明浄、愉悦感、一つの事に対する心の専念性、感覚器官の克服、自己直観の能力などが現れる。

『ヨガ・スートラ』

① 浄化:シャウチャ

浄化しなさい、という禁止戒律である。原語である『śauca』は、「清潔、清浄、純粋、透明、無垢」などを示し、一般的には「清潔、清浄」などとも訳されている。

浄化の戒行の意図は、まず単純に、人生における重要事項と非重要事項との区別を自覚することである。


そして、非清浄への無関心、清浄への関心により、心の散動状態をいじする習慣を排除し、心の不動状態を維持する習慣、即ち清浄へ留まる能力を獲得し、自己と対象との同一化を弁別し、無明を除去することである。

対抗思想:原因と結果の理解

浄化の戒行に背こうとする思想に対抗する思想とは、非清浄への無関心を起こす思想である。

まず単純に、非清浄を放棄し、清浄と関わることである。その本質は、非清浄を放棄しようとする動機、即ち非清浄への無関心がどれ程であるかどうかに加え、清浄と関わろうとする動機、即ち清浄への関心がどれ程であるかどうかである。故に、非清浄への無関心、清浄への関心を徹底したものとするために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、非清浄への関心、清浄への無関心は、無明を根因とし、我想を原因とした貪愛と憎悪(欲望と恐怖)により起こることを、明確に理解することである。次に、非清浄への関心こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、苦悩の経験を永続させる要因なのであり、清浄への関心こそが、欲望と恐怖からの解放であり、苦悩の経験を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、非清浄を非清浄として自覚し、清浄を清浄として自覚することである。

そのために、常時、清浄としての私を忘れないことである。

不純粋性と純粋性

ヨガとは心の浄化法である。浄化の戒行とは、心の不純粋性(非清浄)を排除していき、心の純粋性を獲得していく行法である。

最終的には、外側にある全ては不純であると理解することにより、その全てを放棄し、純粋そのもの(清浄)へと至ろうとするものである。

不浄(停滞性と激動性)を慎む

日頃より、不浄な色形を見ず、不浄な音を聞かず、不浄な芳香を香らず、不浄な食味を摂らず、不浄な体感を与えず、不浄な思想を浮かべず、更に不浄な言葉を語らず、不浄な行動を行わず、不浄な人物と交わらず、不浄な物品を持たずなどと、不浄な物事へ関心を向けないことが、浄化の戒行の始まりである。

全ては不要な清浄でないもの(汚濁)であると放棄し、清浄であるもの(清浄)として在る地点が、その終わりである。

三気質

心の散動性とは、『停滞質』と『激動質』などと呼ばれる2つの気質から起こる心の不純粋性、不均衡性、不調和性、無秩序性などの現れである。心の不動性とは、この停滞質と激動質の2つの気質が減退していく程に増進していく『純粋質』などと呼ばれる気質から起こる心の純粋性、均衡性、調和性、秩序性などの現れである。

現象世界は、停滞質と激動質と純粋質の3気質から成り、相互に関係しながら生滅変化の転変を繰り返している。

三気質の特徴

停滞質の現れは、理解不足から起こる愚鈍、鈍重、怠惰、粗略、悲観、憂鬱、臆病、妄想、闇雲で断絶する努力などである。激動質の現れは、理解不足から起こる鋭利、動揺、焦燥、粗暴、激憤、躁急、貪欲、頑固、固執し猛然とした努力などである。純粋質の現れは、これらを取り除いた後に残る元来の気質であり理解から起こる。

それは愚鈍でなく賢明、鈍重でなく軽快、怠惰でなく勤勉、粗略でなく丁寧、悲観でなく楽観、憂鬱でなく明朗、臆病でなく勇敢、妄想でなく観察、闇雲で断絶する努力でなく明確で持続する努力、鋭利でなく温和、動揺でなく冷静、焦燥でなく平穏、粗暴でなく安穏、激憤でなく静寂、躁急でなく平静、貪欲でなく満足、頑固でなく柔和、固執し猛然とした努力でなく適切で整然とした努力などである。

人の成長とは、停滞質優位と激動質優位を繰り返しながら、徐々に純粋質が優位に成っていく浄化の過程である。



浄化


清浄として在りなさい

定義付けによる、自分と他者の区別を越えて、清浄として在りなさい
己へと去来する、快楽と苦痛の区別を越えて、清浄として在りなさい
自ずから起こる、あるがままの状況を越えて、清浄として在りなさい

あなたの本性である、清浄として在りなさい


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苦悩の原因を理解しなさい

清浄でないものを清浄であるものとする錯覚
汚濁であるものを汚濁でないものとする錯覚

それが苦悩の根因である

自己による観照と心による認識作用とを同一であるとする錯覚

それが、快楽と苦痛に関心を起こす原因である。

快楽と苦痛へと関心を持つ事

それが、欲望と恐怖に支配される原因である

欲望と恐怖に支配される事

それが、あらゆる苦悩の原因である



外への関心が誤りである

内側に常在する清浄であるものに関心をもたない事が、苦悩の種である
外側で生滅する汚濁であるものへ関心を持つ事こそが、苦悩の種である

それは、欲望と恐怖に支配される、地獄への道である
際限のない欲望と恐怖を繰り返す、果てしない苦行への束縛の道である

外への関心、内への無関心こそが、誤り-苦悩-である



内への関心が正しさである

外側で生滅する汚濁であるものへ関心を持たない事が、幸福の扉である
内側に常在する清浄であるものに関心を持つ事こそが、幸福の扉である

それは、欲望と恐怖から自由に成る、天国への道である
際限のない欲望と恐怖を繰り返す、果てしない苦行から解脱の道である

内への関心、外への無関心こそが、正しさ-幸福-である



関心の向きを引っ繰り返しなさい

外側へ、清浄を探すのは愚かである
内側に、清浄を探すのは賢さである

求めて止まないソレは、外側には有り得ない事を理解しなさい
求めて止まないソレは、内側にのみ有り得る事を理解しなさい

世界は、汚濁に満ちている事を理解しなさい

外側への努力は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、その努力を手放しなさい

内側への努力は、肥沃であると自覚しなさい
その明らかな肥沃さを自覚し、その努力に献身しなさい

外への関心、内への無関心という、誤った向きを引っ繰り返しなさい
内への関心、外への無関心という、正しい向きに引っ繰り返しなさい

内と外、関心の向きを引っ繰り返しなさい



事実を自覚しなさい

清浄でないものを清浄であるものとする錯覚を、放棄しなさい
汚濁であるものを汚濁でないものとする錯覚を、放棄しなさい

清浄でないものを清浄でないものと、自覚しなさい
汚濁であるものを汚濁であるものと、自覚しなさい

清浄であるものを清浄であるものと、自覚しなさい
汚濁でないものを汚濁でないものと、自覚しなさい



あなたはただ、あなたとして在りなさい



浄化の戒行とは、外側(汚濁:停滞質と激動質)に対する離欲無関心と、内側(清浄:純粋質)に対する欲望関心へと導くための手引と言えるでしょう。


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