【勧戒④】自己探究

ヨガを一から習う

2-44

自己探究に専念するならば、ついには自己の希望する神霊に会うことができる。

『ヨガ・スートラ』

④ 自己探究:スワディヤーヤ

自己を探求しなさい、という勧奨戒律である。原語である『svādhyāya』は、「自己、自分自身、魂」などを示す『svā』と、「学習、熟考、調査、瞑想」などを示す『dhyāya』とからなり、一般的には「聖典の学習、聖典の読誦、自己の学習、自己への瞑想、自習」などとも訳されている。

自己探究の戒行の意図は、まず単純に、人生における重要事項と非重要事項との区別を自覚することである。


そして、非自己への無探究、自己への探究により、心の散動状態をいじする習慣を排除し、心の不動状態を維持する習慣、即ち自己へ留まる能力を獲得し、自己と対象との同一化を弁別し、無明を除去することである。

対抗思想:原因と結果の理解

自己探究の戒行に背こうとする思想に対抗する思想とは、非自己探究への無関心を起こす思想である。

まず単純に、自己を探究することである。その本質は、自己を探究しようとする動機、即ち自己への探究心がどれ程であるかどうかである。故に、自己への探究心を徹底したものとするために、苦悩の起こる原因と結果の関係性を明確に理解し、錯覚を錯覚として明確に理解することである。

まず、非自己への探究、自己への無探究は、無明を根因とし、我想を原因とした貪愛と憎悪(欲望と恐怖)により起こることを、明確に理解することである。次に、非自己への探究こそが、欲望と恐怖への束縛を反復させ、苦悩の経験を永続させる要因なのであり、自己への探究こそが、欲望と恐怖からの解放であり、苦悩の経験を終焉させる方法であることを、明確に理解することである。直接的には、非自己を非自己として自覚し、自己を自己として自覚することである。

そのために、常時、自己を探究し続け、私のことを忘れないことである。

直接的方法

ヨガとは自己の探究法である。自己探究とは、自己について学習し、熟考し、調査し、瞑想し、理解していくことである。それは修習の目的であり、真我へ至ろうとする最も直接的な方法の一つである。

最終的には、自我が現れる源へと深く入っていき、自我の虚偽性を見破ることにより、自己そのもの(真我)へと至ろうとするものである。

あらゆるものを疑う

日頃より、本当のところ世界とは何か? 本当のところ人生とは何か? 本当のところ私とは何か? 本当のところ私は何を求め、何を恐れているのか? などという重要な問いへと注意を向けることが、自己探究の始まりである。

自己ではないもの(虚偽)を見抜き、自己であるもの(真実)として在る地点が、その終わりである。

聖典・聖者の役割

聖典(経典)

聖典とは、天啓予言の言葉、或いは、聖者賢者の言葉による明知録であり、探究者を真我へと導くための書物である。即ち聖典の言葉とは、無明の覆いを払い除ける手段を指し示す。その本質さえ理解したのなら、自ずと聖典はその役割を終える

その後は、その学習を基に、熟考し、調査し、瞑想していくことである。

聖者

聖者とは、真我を実現した個人性(無明)を取り除いた明知録であり、探究者を真我へと導くための人物である。即ち聖者の言葉は、無明の覆いを払い除ける手段を指し示す。その本質さえ理解したのなら、自ずと聖者はその役割を終える。その後は、その教えを基に、熟考し、調査し、瞑想していくことである。或いは、聖者に服従し、聖者の言葉を信じ切り、個人性を捧げることである。

前者が探求、修習の道、後者が信愛、離欲の道である。



自己探究


自己として在りなさい

定義付けによる、自分と他者の区別を越えて、自己として在りなさい
己へと去来する、快楽と苦痛の区別を越えて、自己として在りなさい
自ずから起こる、あるがままの状況を越えて、自己として在りなさい

あなたの本性である、自己として在りなさい


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苦悩の原因を理解しなさい

自己でないものを自己であるものとする錯覚
真実でないものを真実であるものとする錯覚
虚偽であるものを虚偽でないものとする錯覚

それが苦悩の根因である

自己による観照と心による認識作用とを同一であるとする錯覚

それが、快楽と苦痛に関心を起こす原因である。

快楽と苦痛へと関心を持つ事

それが、欲望と恐怖に支配される原因である

欲望と恐怖に支配される事

それが、あらゆる苦悩の原因である



外への探究が誤りである

内側に常在する真実であるものを探求しない事が、苦悩の種である
外側で生滅する虚偽であるものを探求する事こそが、苦悩の種である

それは、欲望と恐怖に支配される、地獄への道である
際限のない欲望と恐怖を繰り返す、果てしない苦行への束縛の道である

外への探究、内への無探究こそが、誤り-苦悩-である



内への探究が正しさである

外側で生滅する虚偽であるものを探究しない事が、幸福の扉である
内側に常在する真実であるものを探求する事こそが、幸福の扉である

それは、欲望と恐怖から自由に成る、天国への道である
際限のない欲望と恐怖を繰り返す、果てしない苦行から解脱の道である

内への探究、外への無探究こそが、正しさ-幸福-である



探究の向きを引っ繰り返しなさい

外側へ、真実を探すのは愚かである
内側に、真実を探すのは賢さである

求めて止まないソレは、外側には有り得ない事を理解しなさい
求めて止まないソレは、内側にのみ有り得る事を理解しなさい

世界は、虚偽に満ちている事を理解しなさい

外側への探究は、不毛であると自覚しなさい
その明らかな不毛さを自覚し、その探究を手放しなさい

内側への探究は、肥沃であると自覚しなさい
その明らかな肥沃さを自覚し、その探究に献身しなさい

外への探究、内への無探究という、誤った向きを引っ繰り返しなさい
内への探究、外への無探究という、正しい向きに引っ繰り返しなさい

内と外、探究の向きを引っ繰り返しなさい



事実を自覚しなさい

自己でないものを自己であるものとする錯覚を、放棄しなさい
真実でないものを真実であるものとする錯覚を、放棄しなさい
虚偽であるものを虚偽でないものとする錯覚を、放棄しなさい

自己でないものを自己でないものと、自覚しなさい
真実でないものを真実でないものと、自覚しなさい
虚偽であるものを虚偽であるものと、自覚しなさい

自己であるものを自己であるものと、自覚しなさい
真実であるものを真実であるものと、自覚しなさい
虚偽でないものを虚偽でないものと、自覚しなさい



あなたはただ、あなたとして在りなさい



自己探究の戒行とは、外側(虚偽)に対する離欲無探究と、内側(真実)に対する探究へと導くための手引と言えるでしょう。

ある意味では、自己探究とは外側の探究なのじゃ。それは、発見してゆくそのすべてを自己ならぬ虚偽であると識別し、放棄していくことにより、内側へ内側へと深く入っていく作業なのじゃ。


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