八支則8.三昧

ヨガを一から習う

3-03

静慮が、外見上、その思考する客体ばかりになり、主体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧と呼ばれる境地である。

1-41

かくして心の作用の全てが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がその傍の花などの色に染まるように、心は認識主体、認識器官、認識対象のうちの何かに留まり、それに染められる。これが三昧と呼ばれるものである。

1-17

三昧のうちで、尋、伺、楽、我想などの対象を伴っているものは有想と呼ばれる。

1-18

もう一つの三昧は、心の動きを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。(無想と呼ばれる)

1-51

最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する。

3-55

認識作用の純粋質と真我との純粋さが均しくなった時、真我独存の境地は現れる。

4-34
末文

独存位とは、真我のためという目標の無くなった三気質が、自分の本源へ没入し去ることである。あるいは、純粋精神なる真我が自体に安住することだ、といってもよい。

『ヨガ・スートラ』

8.三昧:サマーディ

主体が消える状態である。原語である『samādhiḥ』は、「集中した状態、集中力」などを示し、それは「集中状態が極まった状態」である。

忘我状態

三昧とは、認識する主体(自我)が消え、凝念対象(意識内に意図的に思想する対象)のみが認識される状態である。即ちそれは、自我(私は何々である)が一時的に忘れられる状態であり、『忘我』などとも呼ばれる。
例えるならそれは、一か所に止まっていた牛馬が消え、観照者と認識作用と認識対象(観照対象)が残っている状態である。

主客合一

それは認識する主体と認識される客体とが合一することとして『主客合一』などとも呼ばれてる状態であるが、実際には、それらは元々<ひとつ>であり、心の作用によって主体と客体が分別される以前の状態に戻ることである。

三昧の種別

有想と無想(有種子三昧)

認識主体が消えても、認識作用による認識客体は残っており、観照と認識客体とが同化している状態が有想三昧と呼ばれる。全ての客体が消え去り、観照と認識客体とが弁別されている状態が無想三昧と呼ばれる。

真我独存(無種子三昧)

無想三昧において、修習の努力の結果として起こる不動状態に留まろうとする心の潜在的作用(行)も消滅する。それが心の作用の止滅である。停滞質と激動質を拭い去った心は、純粋質となり、その源である真我をそのまま反映する。

それは純粋な存在として独り在る状態であり、『真我独存』と呼ばれる。それこそが、虚偽から解放され、真実を悟ることである。



三昧


真我に留まる

観るものが、観られるものの正体を観る
観るものが、観られるものを自身の投影であると見抜く
観られるものが、非存在性を見抜かれ消える

観るものが、観るものの正体を観る
観るものが、観るものとしての自己を直観する
観るものと観られるものは弁別する



両者の根源である純粋観照者-真我-は独り顕わになる



内側と外側は<ヒトツ>の真我となる
観るものと観られるものは<ヒトツ>の真我となる
両者は元々<ヒトツ>の真我である

内側と外側と呼べる様な区別は無い
観るものと呼べる様な主体は無い
観られるものと呼べる様な客体は無い



終焉

観照する者も、観照すべき対象も、観照する事も、何一つ無い
浄化する者も、浄化すべき対象も、浄化する事も、何一つ無い
満足する者も、満足すべき対象も、満足する事も、何一つ無い
自制する者も、自制すべき対象も、自制する事も、何一つ無い
探究する者も、探究すべき対象も、探究する事も、何一つ無い
信愛する者も、信愛すべき対象も、信愛する事も、何一つ無い

起こるべきすべては、自ずから起こり終えた

苦悩の根因である、潜在印象による心の反応作用は終焉した
苦悩の根因である、潜在印象による個人的『私』は終焉した
苦悩の根因である、潜在印象による個人的な世界は終焉した

無明は除去され、明知は顕わになる

元々、私でないものなど、何も存在していない事を自覚する
元々、私であるもののみが、独り存在している事を自覚する
始まり終わりの時間もなく、永遠の 今 が在る事を自覚する
上下前後左右の空間もなく、無限のここが在る事を自覚する

定義付けを失くした無限の【私】は偏在し、超越している

















私は、私である、である

















観られるものへ愛ある関心を向けることである。信愛に基づく観照、気づきが、真我に注意を移行する要因である。


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