2016-01-26

変化するということ

気ままの雑記から習う

前々回の記事「世界の動き方」では、全体は自動的に「ただ動いている」のであり、ヒトの行為も ー 記憶に従って自動的に動いている ー というお話しをしました。

すべてはひとつの全体であり、そこに自分(個別・分離)はなく、「全体」が自動的に(自ずから然りと)動いている…… にもかかわらず、心の作用は今ここにあたかも自分(個別・分離)が存在しているかのように錯覚し、そして今ここであたかも自分が行為しているかのように錯覚している……

観察をすることが、その錯覚を錯覚であると見抜き、錯覚(無明)から目覚めるゆるがない弁別智を発現する直接的方法である、ということでした。これは、『般若心経』の中の観自在菩薩が見抜いたことでもあるでしょう。つまり、世界が分離して見えていたのは、5つの心の作用による錯覚によっていたことをです。

世界の動き方はこちら

雑記70

永遠不変の正解は「ない」

さて、仏教に諸行無常という用語があるように、この世界は「変化する(=動く)」ことがその本質といえるでしょう。

よってこの世界には、永遠不変と呼ぶべき何かは、何一つとして「ない」ということです。一瞬たりとも不変なコトはなく、固定されたモノはありません。もちろん固定された「自分」も「ない」ということです。

絶対なる永遠不変の「善良/邪悪」は「ない」ということです。
絶対なる永遠不変の「優良/劣悪」は「ない」ということです。

  • 朝ごはんを食べるのは、健康にいいか/悪いか?
  • アルコール類をとるのは、健康にいいか/悪いか?
  • ココナッツ油をとるのは、健康にいいか/悪いか?
  • 動物性の食材を食べるのは、健康にいいか/悪いか?

そこに絶対とした正解を求めていませんか?
メディアの情報に右往左往していませんか?

そこに、絶対とした正解は、ありません。
ないものを探していては健康に悪いです!
嘘です。絶対とした正解は、ありません。

心は安定を求めます。そのために固定された正解を求めます。ですが、どこにも固定された永遠不変の正解は「ない」のです。

昨日の薬は今日の毒。今日の毒は明日の薬。

例えば、昨夜は眠る直前にお腹いっぱい食べたため、翌朝お腹が空いていないとします。であれば、朝ごはんを食べることは相対的に健康に悪い可能性があります。逆に、昨夜は眠る5時間前に食べたため、翌朝お腹が空いているとします。であれば、朝ごはんを食べることは相対的に健康にいい可能性があります。

例えば、アルコール類をとることでストレスを発散するのであれば、アルコール類をとることは相対的に健康にいい可能性があります。そうかといって、肝臓のアルコール分解機能を上回るほどの量をとったなら、それは相対的に健康に悪い可能性があります。

例えば、処方箋には薬を飲む時間、年齢別の飲む分量などが指示してあることでしょう。それは、今の身体の状態により、必要な「薬」となるか、不要な「毒」となるかは変化するからです。それは薬剤であっても、食事であっても同じことです。

宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ(原作)』の中で、ナウシカ達の身体は、「腐海の毒」がゼロの空気の中では生きられなくなっていたという場面があったように記憶しています。

それはつまり……

  • 過去には「毒」として機能した成分も、現在には「薬」として機能するように身体が「変化」していたということです。
  • 多量では「毒」として機能する成分も、微量では「薬」として機能するように身体が「変化」していたということです。

昨日の薬は今日の毒となり、今日の毒は明日の薬となる可能性があります。この世界には、絶対とした薬も、絶対とした毒も「ない」のです。

変化を踏まえた対機説法(たいきせっぽう)

そしてこれは、「食事」に限ったことではありません。

呼吸も、姿勢も、運動も……絶対とした正解はありません。100mを全力疾走したばかりの人に深呼吸は苦しいはずです。骨折している人にハタヨガの姿勢(体位)は痛いはずです。風邪をひいている人に運動はしんどいはずです。同じ運動であっても、ある人には薬となり、ある人には毒となるのです。

宗教も、哲学も、学問も……絶対とした正解はありません。かのお釈迦さんは、人を見て法を説いたと言われています。各人の心身の状態に合わせて、必要な「薬」となる言葉を伝えたのです。それは、同じ言葉を伝えても、ある人には薬となり、ある人には毒となることを熟知していたからと言えるでしょう。

また、2500年前のインドの常識が、現代の日本の非常識と言われることも多々あるはずです。時代や場所が変われば常識も、その言葉の示す意味も変わるものです。

お釈迦さんもイエスさんも、「言葉」がいかに各人によって解釈が異なるか、時代や場所によって変化するか、余計な迷いを生み間違った場所へ向かわせる可能性をはらんでいるのかなど、「言葉」の危険性を熟知していたからこそ、書物に言葉を残すことをしなかったのでしょう。

現に、お釈迦さんの教えを書いたという上座部経典や、イエスさんの教えを書いたという新約聖書は、多くの人にとってその役割が伝わっていないことでしょう。もちろん、それがいい悪いのお話しではないのですが……

変化するということ  まとめ

まとめ
  • 「すべて」には、絶対とした正解は「ない」


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