2016-03-01
観察するということ
さて、人の心の中に想像される分別された「世界」。その「世界」が錯覚であると見抜き、錯覚(無明)から目覚めるためには、世界(心)を観察をし、その事実(真実)に気づくことが必要です。
観察するとは?
左の絵は、私が中学2年生のときの美術の授業で、クラスメイトを描いたものです。
絵を描くにも、観察力はとても必要な能力です。それは、眼に飛び込んでくる光の「ありのまま」を描き写す能力といえます。しかしながら、その能力を邪魔する能力があります。
記憶です。
眼とはこういう形でここら辺にある・・・なんて世界(目の前の人物)のありのままではなく、止むを得ず記憶に従ってしまうのです。人の認識は、記憶に従っているからです。
年長さんのころ、「太陽のある絵」を描くという課題がありました。おそらくはほとんどの子が、青空に浮かぶ「真っ赤」な太陽を描いていたのでしょう。
私は・・・
青空に浮かぶ、「黄色」の太陽を描きました。
先生に不思議がられて、「どうして黄色い太陽を描いたの?」なんて問われたように記憶しています。そして、こうへいクンはきっと答えました。
「だって黄色く(黄色っぽく)見えるから」
人は、記憶にある想像(イメージ)と結びつけて世界を認識します。それは事実(真実)ではありません。
事実を見ているようで、見ていない。
過去(想像)を見ているのです。
もちろん、それが「いい/悪い」のお話しをしているのではありません。
観察することは難しい?
思考とは、過去(記憶)です。
想像とは、過去(記憶)です。
すなわち。観念とは、過去(記憶)です。
絵を見て、平面的に認識することは非常に難しく、「あ」「い」「う」という観念を認識することは非常に容易なように。観察するということは中々難しいことです。
この絵も、とても単純な題材に見えますでしょうが、中々難しいものです。ぜひ描いてみてください。観察のいい練習にもなりますし、絵を描くのも楽しいものです。
境界線
太陽は「赤色」でしょうか?
浮かんでいる雲は何色でしょうか?
観念(イメージ)に支配されると「白」となります。観察をしてみると、そこに境界線のない様々な色が見えます。
同じ対象であっても、直接的に光にあたっている部分か、あたらず影になっている部分か、それによってまったく異なった色がそこに見えます。そして無数にあるその曖昧な部分。しかし頭には、それを無視して「白い物」などと観念に従って判断する機能があります。
目に映る世界に、「白」「黒」「赤」「緑」という色を見ることはできるでしょうか? 「白」と「黒」の境界線は、いったいどこにあるのでしょう。よくよく観察してみると、そんな色、そんな境界線は、きっとどこにも見えないことでしょう。「区別された色」を作り出しているのは「言葉と想像(イメージ)」です。
「色」ひとつ観察してみても、世界には線引きできるような境界線などは、どこにもないことに気づきます。
同じように・・・
目の前の世界に、「あなた」「わたし」「アレ」「コレ」なんて区別を見ることはできるでしょうか? 「あなた」と「わたし」の境界線は、いったいどこにあるのでしょう。よくよく観察してみると、そんな区別、そんな境界線は、きっとどこにも見えないことでしょう。「区別された物」を作り出しているのは「言葉と想像」です。
すなわち、記憶された観念に依るのです。
観察するということ
真の観察とは、行為ではなく、「気づき」です。
- ただただ思考に気づいている。
- ただただ想像に気づいている。
- ただただ感情に気づいている。
- ただただ感覚に気づいている。
すなわち、ただただ世界(心)に気づいている。
ただそこに「気づき」が在る。
それこそが、世界(心、錯覚、幻想)から距離をとるチカラという訳です。
今日の太陽は、どんな輝き方をしていましたか?
隣にいる人は、どんな輝き方をしていますか?